― はじめに ― |
ここでは、杜撰で根性無しのねぼ子が集めた少ない資料をもとに、いい加減で中途半端な<考察>と、ご都合主義もいいところ手前勝手な<My設定>を中心に『荀一族』を紹介していくページです。 誹謗・中傷の類いはいっさいお受けいたしかねますので、ご了承の上でお読みください。 尚、間違い・修正すべき箇所及び付け足す事項などありましたら、是非メールやBBSなどでお寄せくださると嬉しいです。よろしければHN拝借の上、付け加えさせていただきたいと存じます。 よろしくお願いいたします(かなり切実!) |
荀淑 季和 | 【生没年】83〜149 | 【荀ケとの関係】 荀ケの祖父 |
【官位】 郎中 ⇒ 当塗長 ⇒ 辞職 ⇒ 朗陵国の相 ⇒ 辞職 |
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<考察> 荀ケの祖父で荀子11世の子孫と言われている・・・・・・・が、そういうのをつけるのは歴史書を飾る上で必要不可欠だったらしいので、かなり怪しいらしい(笑。 荀家のはじまりはこの人からと言っていいだろう。官界にほどんど身をおかなかったのに、「神君」とか称されてしまう。しかも、その官界から遠ざかっていた荀淑の郷里の生活たるや「産業増すごとに宗族賑わす」というんじょだから、結構裕福だったようだ。しかも郷里において非常に人望があったようで、村人はこぞって祠を立てたというから驚きだ。 荀ケが生まれる前に死亡しており、接点がないのが残念である。 |
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<My設定> 人のいい商売上手なおじいちゃん。闊達で身分などへのかっぱ。わが道を行く、元気で強放家です。 |
荀コン 仲慈 | 【生没年】66歳で死亡 | 【荀ケとの関係】 荀ケの父 |
【官位】 従事 ⇒ 尚書 ⇒ 済南相 (逆か?) |
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<考察> 荀ケの父。周瑜の一族の周景が潁川大守だったころ従事として召しだされる。 その後どうなったかはわからないが、少なくとも166年ごろ尚書となっており、済南相はその前後(たぶん後)に任じられたものと思われる。在任のまま死んだかどうかは不明。兄荀倹が161年に死亡しているので、そのあと一族の長たる立場にいたものと思われ、そのために唐コウの娘との縁談を断れなかったのではないか。 |
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<My設定> ということは、荀ケはもしかすると洛陽で産まれているという可能性があります。だから唐コウも荀ケの存在を知ることができた・・・とするとうまくつじつまが合うと思いません? さて荀コンは物静かで責任感の強い男と設定しています。荀ケが洛陽で産まれる前から中央で働き、縁組のあと第一次党錮前まで済南相となり、第一次党錮で尚書として呼び戻され、第二次党錮で免職処分。以後郷里で晩年をすごし、177年死亡する・・・・という説です。 |
荀エン 休若 | 【生没年】?〜? | 【荀ケとの関係】 荀ケの兄 |
【官位】 監軍校尉 |
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<考察> 荀ケの三番目の兄。文武両道だったらしく、高幹の謀反を察知、チュウ殺するということをやってのけている。曹操の二つ目の本拠地ギョウの警備を一時任されていたというのだから信頼は厚かったのだろう。 |
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<My設定> 豪放闊達。文武に優れた傑物としています。長男次男は父の生存中に死亡したと設定し、父死後一族の家長となります。荀ケより7歳年上。 |
荀シン 友若 | 【生没年】?〜? | 【荀ケとの関係】 荀ケの兄(弟?) |
【官位】 参謀 |
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<考察> 進出キボツという言葉の似あう男。突然現れ、突然消えた・・・・・。荀ケの兄とも弟とも言われているが、たぶん四番目の兄。いつのまにか袁紹に使えていて、韓プクから冀州を奪うのに一役買っている。でもって官途の戦いの前の軍編成において参謀として名を連ねるも、その後名前がでてこないところをみると、官途の戦い前で死亡したものと思われる。 |
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<My設定> 三つ年上の四番目の兄。荀ケを溺愛している兄馬鹿。一族より一足先にキ州へ良き、袁紹に使えます。袁紹陣営における潁川士大夫の筆頭株です。性格は真面目でひかえ目。死亡時期は官途の戦いの前。長男ともども死亡したあと次男以下を荀エンがひきとったことにしています。 |
荀セイ 叔慈 | 【生没年】50歳で死亡 | 【荀ケとの関係】 荀ケの叔父 |
<考察> 荀ケの三番目の叔父。「玄行先生」とおくりなされるほど高名な士大夫。許ショウ曰く、「内に光沢を含んでいる玉」 見た目は平凡だが中身はすぐれていたらしい。彼が死んだとき弟子の28人も又後追いしたらしいが・・・・。 |
荀爽 慈明 | 【生没年】63歳で死亡 | 【荀ケとの関係】 荀ケの叔父 |
【官位】 至孝・郎中 ⇒ 辞任 ⇒ 従事 ⇒ 大将軍従事中郎 ⇒ 侍中 ⇒ 辞職(?) ⇒ 平原相 ⇒ 光録大夫(加増) ⇒ 司空 |
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<考察> 荀シュクの後を継ぎ、清流派士大夫の中核を担った荀ケの六番目の叔父。九十五日で布衣から三公に昇ったことは有名。でも相手が董卓では気の毒としか言いようがない。董卓暗殺計画に一枚噛んでいたが、病であえなく途中退場となった。文学者としても有名で、「漢紀」「新書」の他、さまざまな條例(研究論文)を書いたという。 しかも、集解によれば彼には娘がおり、その娘の娘、即ち荀爽の孫が郭嘉の息子郭エキと何やらかかわりがあるらしい。・・・・・・・誰か解読してください(涙。 |
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<My設定> 191年死亡としています。学者肌な男ですが、169年〜184年までの15年間、逃亡生活を続けたという豪胆な一面も。苦労した一人だよな・・・。 |
荀悦 仲豫 | 【生没年】148〜209 | 【荀ケとの関係】 荀ケの従兄弟 |
【官位】 黄門侍郎 ⇒ 秘書監侍中 |
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<考察> 荀倹の次男、荀ケの従兄弟にあたる。容姿が美しかったらしく宦官に勧められたとか。それを嫌がって隠居してしまうあたり頑固な荀一族の血を感じる・・・。献帝時代に「漢紀」「申カン五篇」を献じたとか。そのうちの「漢紀」については司馬光の「資治通鑑」で随所に見られる。 |
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<My設定> 沈静・・・・というので、一見物静かで穏やかな性格の持ち主だったのでしょう。しかし内面は、曹操を真正面から非難したり、宦官が嫌で隠居したりと度胸と頑固さはしっかりと持っていたようです(笑。12歳の時に父を亡くしたため、以後は荀コンの世話を受けるように。荀ケとは兄弟同然に育ち、よき理解者でもあるとしています。文学青年で、女性のような容貌の持ち主・・・・・・。父を亡くした美少年、苦労多い白皙の書生なんて萌えな人だったりするのだ。何故腐女子に人気がないのか・・・・・・・は、ひとえにマイナーすぎるからだろう。 |
荀攸 公達 | 【生没年】157〜214 | 【荀ケとの関係】 荀ケの従子 |
【官位】 孝廉 ⇒ 黄門侍郎 ⇒ 任城の相(辞退) ⇒ 蜀郡大守 ⇒ 汝南大守 ⇒ 尚書 ⇒ 軍師 ⇒ 中軍師 ⇒ 尚書令 |
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【侯位】 安楽郷侯(八百戸) ⇒ 博平侯(千三百戸) 〔おくり名〕敬侯 |
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<考察> 荀ケの六歳年上の従子。外見と内面が160度違うと曹操に誉められた人。 「それってほめてるの?」とかつっこんではいけない(笑。 荀ケがショウカとするなら、彼こそまさしく張良である。荀ケ死後政治面にもその才を発揮するが、おそらくは軍師肌な人だろう。最後まで軍中におり、その死も孫権征伐の途上というあたり、荀ケを重ねたくなる。 |
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<My設定> うちの荀攸は無口無表情。何を考えているかまるでわからない人です(笑。 頭の中ではめまぐるしく回転しているのだが、それを説明している間に次のことを考えていることが多く、よっぽど彼との会話に習熟していないと彼の思考を読み取ることは不可能。それがわかっているから荀攸は何も言わないことがおおい。自己完結の激しい人かもしれない(笑。鐘ヨウとは大の親友。荀ケのことは「文若殿」と呼んでます。おじいちゃん子。 |