学校

主に後漢時代の学校および教育制度について、分かる範囲で紹介したいと思います。
事前に断っておきますが、私の理解ですので、正しいか否かはご自分で調べてください。
もし間違っていた場合は、こっそり教えていただけるとありがたいです。

後漢時代にはだいぶ確立していたようで、一般民衆さえもが教育の対象だったようです。
そして、主に二つに分けられます。


初等教育と遊学期です。


【1】初等教育

(1)書館(書舎・小学〉
まず最初に行く学校です。
日本で言うところの小学校にあたるでしょう。開始年はまちまちだったようで、一般的には『8才』くらいだったようです。
ここの先生は『閭里書師』とよばれ、主に一人の先生が百人の子供相手に教鞭をとっていたようです。
科目は主に国語と算数。場所によっては地理も教えるところがあったようです。テキストは年代によってさまざまだったようですが、国語については識字用のテキストがあったらしく、それを写しながら覚えたようです。次数は三千三百(異論あります)。ちなみに字を間違えたり、汚かったりすると鞭で叩かれたとか。厳しかったんですね。
ちなみに荀ケのような豪族の子弟は、一般とは異なり、自宅で6才くらいからはじめたようですね。

(2)庠序
郷(村の単位〉には『庠』。聚(衆?)には『序』という学校がおかれ、それぞれ『孝経師』という先生が一人ずついたようです。ただどうもこれらは書館となんら変わるところが無かったようで、『書館+大人の庶民の教育場』としておかれていたようですね。教科は「論語」と「孝経」。主に暗唱を行っていました。というのも、この時代印刷なんて存在しませんし、紙も貴重ですから、紙面に写す変わりに頭で覚えるというのがあたりまえだったようです。 ・・・・・・・・・・自分がこの時代に生れて無くてよかった。

(3)県校
一番資料の少ない学校で謎とされています。あったのは確かですが、中身がよくわからないそうです。先生の数も全館では『経師』と呼ばれる人が一人、しかし後漢には複数に増えたそうです。科目は「孝経」と「論語」の暗唱と簡単な解釈を行っていたようです。



以上で初等教育は終了です。年齢にしてだいたい15才前後。このあと遊学期に入ります。


【2】 遊学期

前置きを少し。
ここから先はほんとうにややこしいです。まぁ日本でたとえるなら『中学校卒業程度』と思ってください。
どういうことかというと、中卒で就職するケース、働きながら学校に通うケース、家が裕福ゆえに修学するケースの三つに分けられます。当然働いてお金をためてから学生になるケースも当然あったわけで、今以上に年齢に関しては融通がきいたみたいですね。
ちなみに修学する人間は「諸生」と呼ばれ、ここから先はそれぞれの科目を専門的に学んでいくことになるわけです。


(1)郡国学
名前のとおり、郡単位でおかれた学校です(まんまだな)。まず学長にあたる『文学主事掾』という官吏がいます。その下には科目ごとの『文学掾(郡文学博士)』。また生徒も『弟子』と『諸生』とに区別されていました。
生徒数はまちまちで、数百人〜千人くらいの規模だったようです。学習内容は五経および礼や楽(音楽?)です。
ただ学ぶ順序があったらしく、(論語・孝経はさておき)『詩』『書』『春秋』『易』『礼』と学んでいったそうです。
これらの暗唱をまず修めます。次にそれらの解釈にあたる『章句』。そして現実の諸問題と照らし合わせ実践的能力を高めるための『経術』が行われました。『章句』というのは、先生の「解釈」を暗記することであって、自分で勝手に解釈してはいけなかったそうです。

(2)太学
洛陽にあった学校で、諸生たるものの最高峰だったようです。今でいう東大ですかね。
学長は当然中央官吏で、『博士祭酒』。先生は比六百石たる『博士』(14人)。その博士の下に『博士弟子』(約千人)、その下に『諸生』がきます。一番栄えたときは三万人もいたそうですから、相当隆盛極めていたといえるでしょう。
さて、太学には入学規定がありました。誰でも入学できるわけではなかったんです。

入学資格は以下のとおり

@18才以上で、太常から選ばれたもの
A郡大守・国相が可としたもの
B六百石以上の官吏の子弟

要するにコネのある人間ということです(え、違う?)。

さて、太学に入る利点は知名度があがるだけでなく、その後の就職にも有利に働いたことにあります。当然といえば当然で、高官の子弟と仲良くなってコネつくるチャンスでもありました。また、太学の生徒の多くは寄宿舎で寮生活を送っていたらしく、より強い連帯感が生れたのも無理はないでしょう。
ただ、全員寄宿舎から、ということはなく、当然働きながらの人もいたわけで、洛陽にすんでいる場合は自宅から通うこともあったようですね。

(3)私学
一番難解で一番複雑なくせして、一番隆盛を極めたのがこの『私学』です。
塾長にあたる人は『師』と呼ばれます。次に師から直接教えを受ける『弟子』と、その弟子から教えを受ける『門生』がいました。『堂にあがる』ことができたのは、『弟子』だけだったようです。
入門資格は特に無く、束脩の礼を踏まえれば誰でも入門できたそうです。ただし例外もあるわけで、紹介が必要だったり、師から拒否されることもあったそうです。
科目は当然『師』の専門科目で、中には『医学』や『易』なんかもあったとか。


以上で学校制度は終わりです。
ではその学校生活とその後も少しだけ紹介しましょう。


【3】学校生活

孤独です(笑。
だいたいにおいて家族と離れ、一人修学にいそしんだとか。
さて、太学はすでに述べましたが、そのほかも似たり寄ったりです。まず自給自足が原則。
かなりお金がかかったらしく、場合によっては泣く泣く書を売ったりということもあったとか。おかげで学校の前(私学の前もしかり)には、学生のための小さな市がたったりもしたそうです。・・・・・・場合によっては『賃春』なんて言葉が飛びだしていました。・・・・・・・・・・・・・・・さあて、何でしょうね?(笑
私学の場合は住み込みで、学校の雑事をしながら学ぶこともあったようです。裕福だと学校の近くに住宅を購入したそうですが、多くはそうもいかなかったでしょう。ほかにも師とともに共同生活を営んだりもしたようで、党錮の禁のときには師と共に山中に隠れ住んで自給自足した例もあったようです。


【4】その後

『諸生』の目標は官吏に就くことがほとんどです。
まず中卒レベルからいきましょうか。初等教育を受けた後、地方官吏になるには試験がありjました。特に文官のばあい『九千字』を読み書きできることが必要だったとか(諸説ありますが)。
次に郡国学。どうも修学中に試験があったらしく、その試験で優秀な成績をおさめると、掾吏に採用されたそうです。もちろんこの試験とは別に任用試験もあったそうで、こちらは自主性にまかせられたものだったそうです。
太学。
ここは特に大変です。
二年に一度試験(射策)が行われ、成績がわるいと退学させられたそうです。二経以上の暗唱と章句の試験だったそうですね。ただし、この成績が優秀だと『茂才』に推挙されたり、『郎中』になれたりと厚遇されます。『郎中』は、『孝廉』に推挙された人間が『対策』という試験の後になれる官吏のひとつですから、出世コースのひとつでもあったようですね。



以上、学校および諸生について簡単に紹介してみました。
後漢の官吏のほとんどはこの『諸生』出身者だったそうです。

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